さだひさお ほとんど意味もない自己紹介なので・・・あらかじめご了承ください。※言葉にリンクがありますが広告にとんだり作為的なリンクはしてないのでご安心ください |
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ごあいさつ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
私、さだ は四国の高知在住のイラストレータです。私は主として、子どもの日常の光景・・友達同士で登校する子ども達、公園のブランコで一休みしている子ども達、 虫取りをしている子ども達川遊びをしている子ども達、そんな、ワンシーンを水彩画で描いています。 今の時代は、子ども達の世界にも、様々な暗い、重たい問題が山積みです・・そもそも、大人の社会の歪みが影響しているのだと思いますが しかし、私を含めて、今大人といわれる全ての人は、必ず昔は子どもだったはずです。 子どもの時代の、素敵な出来事を、少しでも思い出せたなら少しは、社会も変わっていけると信じています。 |
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おいたち | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1957年なんと・・・3月3日に 日本に誕生! いまだに誕生日を人に言うのが恥ずかしい でも皆よく覚えてくれるので得はしている |
清流「久万川」の近くで育つ 今は清流の面影はないが・・・ 当時久万川周辺は田んぼだらけで 夏は一日中久万川で泳ぎ 夜はホタルが普通に舞っていた 歩いて10分くらいのところに 八百屋兼駄菓子屋があり ほぼ毎日10円玉を握り通った 小学生時代・・・昭和の良き時代であった |
当時の住家は借家でしたが より住みやすい家を目指し 両親はよく周辺で転居を 試みていたので 小6までに3回引っ越した 内風呂のない家から 薪でたく風呂付に変わった時には世界が変ったように思えた |
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テレビというものが一般家庭にやっと 普及し始めた頃でしたが 小4くらいの時 衝撃的な出来事が!・・・・ カラーテレビの出現であった 大家さん(裏にあった)のお宅には いち早くカラーテレビが導入され それを見せてもらうため よくお邪魔した・・・ 「仮面の忍者赤影」などを よくく観せてもらったのを覚えている |
さて小6になったとき 引越し好きの両親は なにを血迷ったか 西久万から東久万へ移住した 当時の僕にとっては おそらく東京へ行くくらいの 衝撃であった・・・文化も それなりに違ったのだ 転校はしなかったが 通学時間が15分から40分に いっきに延びた |
さてさて引越し好きのさだ家がついに 県外へ行くことに・・・ 父の転勤によるものだが 中2にあがる頃・・・多感な時期 なんとしても転校を阻止しようと 泣いて頼んだが さすがに 預ける親戚もいないかったため 初めて大好きな高知を後にして 香川県高松市へ |
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まあ、文化の違いは 西久万と東久万の違いなど比にならない とにかく勤勉な香川県人にまざり 成績はいっきに下へ下へ 宿題は忘れていく ある先生には こめかみをグリグリされるなど 迫害(?)をうけるという 自分はそれまで、いわゆる 「良い子」だったと思っていたので 自分のなかでは 「こりゃあ高松では問題児やなあ・・・」 と自分では感じていた そして「高知は良かったなあ」 とずっと思い続けていた |
しかしまあ、当時は転校生に対するいじめもなく 友達にはめぐまれ とくに不思議にも 秀才型から不良型といろいろな友達ができた 高1まで高松で過ごした後 父の転勤で奇跡的に高知へ帰れることに・・・ 高校で転校というのもなあ〜と 考えたし、その頃は高松にも愛着がわいてたこともあり 寮に入り卒業まで過ごすことも考えたが、 当時の担任が 「この年代で1人暮らしさせると、ろくなことはないですよ」の一言でまた転校(帰郷)することに |
さあ!3年ぶりの高知!! 高校の転校もさして大きな支障もなく、やがて友達もできたが 不思議なことに13年育った割りに 昔の友達にはあまり会わなかったのが いまだに不思議である それまで帰宅部だったので 転校を機会に入った美術部で 絵を描くことを始めた 当時流行かけていた アクリル絵の具「リキテックス」で 油絵もどきを描いていた 当時は芸術家のつもりでいた |
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美術部で県展にだすことが決まったが ・入選しやすい ・金がかからない だけの理由で商業美術部門(今の グラフィック部門)へ出品 みようみまねでポスターにしたて 見事に落選 強風の中自転車で搬出したことを 今でもしっかりと覚えている |
さて第一次オイルショックで 高校卒業で就職できない時代でもあり 受験勉強をまったくせずに 入れる大学を探し出し入学 いよいよ四国外へ! |
学部は工学部機械工学科・・・ ついてけるかなと不安を抱えつつも 狂喜の1人暮らしをスタート! 学生時代のエピソードを書くときりが ないので ここはイラストに関わることだけ 3年のとき 県展に再挑戦で見事入選 ほんと〜〜〜に うれしかった!! |
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大学卒業のタイミングも 今度は第二次オイルショック 思いのところに就職できなかったが 社会にでたら始めようとおもっていた 演劇の世界に・・・しかし 舞台でセリフは無理だと悟っていた頃 モダンダンスに誘われて 舞台で無言で表現できるという世界 に感動を覚え・・・以来20年踊り続けてきました |
県展もずっと出品を続けていたし 演劇も音響係りとしてしばらく活動 イラストの制作集団も立ち上げてたり 30歳位までは 休みの日にのんびりすることなど 一日もなかったような気がします |
さて・・・いまだに 仕事はアートと全く関係ないものです もう30年ほど勤めてきましたが さすがにここ数年 「このままでいいのか?」 そう思う毎日です あの頃の末来に僕等は住んでいるのかな? という唄のフレーズが 身にしみます・・・ |
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賞歴と個展記録 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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作品掲載歴とデザインのお仕事など | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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